「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

船本洲治と華青闘告発

■桐島聡と「寄せ場」労働運動

 興味深い記事を読んだ。

 1月29日に鎌倉市内の病院で亡くなった東アジア反日武装戦線「さそり」元メンバー、桐島聡への追悼文である。救援連絡センターの機関誌『救援』3月10日号に掲載されたものだ。

 書いたのは、かつて同グループで桐山と一緒に活動していたU氏である。U氏は1982年に逮捕されたが、すでに服役を終えている。

 東アジア反日武装戦線の主要メンバーが一斉逮捕されたのは19759月のことだった。このとき、桐島とU氏は逮捕を逃れ、それぞれ潜伏生活に入る。

 仲間の逮捕を受けて潜伏生活に入る時、二人は3か月後に落ち合おうと約束した。待ち合わせ場所として選んだのは鎌倉市(神奈川県)の銭洗弁財天だった。金運ご利益スポットとして知られる観光名所である。

 だが3か月後の約束の日、銭洗弁財天に姿を見せたのはU氏だけだった。

 それから50年近くが経過して、桐島が亡くなったのは、銭洗弁財天と同じ鎌倉市内の病院だった。しかも彼は隣接する藤沢市で長きに渡って生活していたこともわかった。

 これは単なる偶然なのだろうか。U氏は追悼文のなかで「私との『約束』にこだわっていたからではないのか」と、桐島が湘南の地を離れなかった理由を推察する。

 ちなみにU氏は逮捕されるまでの7年間、「約束」した9月になると銭洗弁財天に足を運んだという。もしかしたらそこに桐島がひょっこり姿を見せるのではないかと考えたのだろう。

 もちろん桐島に会えることはなかった。

 だが桐島は、亡くなるまでの数十年間を、そこに近接する場所で過ごしていたのだ。どんな事情があって「約束」を果たすことができなかったのかはわからない。だが、桐島が約束の場所との距離を意識しなかったことはないだろう。

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