虐殺の思想━━人間が「こわされる」とき
■2023年を表す一文字「虐」
今年の世相を漢字一字で表現すると━━ゲスト出演したネット番組(デモクラシータイムス)で司会者に問われた私は、長考したうえで、「虐」と答えた。
「虐殺」されるパレスチナの人々を思った。
辺野古新基地建設をめぐる代執行訴訟の不当判決に憤りを感じていたこともあり、「虐げられる沖縄の民意」を思った。
そして2023年は関東大震災の朝鮮人・中国人「虐殺」から100年という節目の年でもあった。この未曾有のヘイトクライムに対し、その事実すら曖昧にしたまま恥じることのない政府の理不尽を思った。
今年は震災虐殺関連の取材に長い時間を要した。
関東各地の虐殺現場はもちろんのこと、関西、韓国にも足を運んだ。
取材の起点となったのは、毎年、慰霊祭がおこなわれる荒川の河川敷である。
100年前のあの日、火の手を逃れて河川敷に向かう避難民の群れを想像しながら、私は東京スカイツリーが建つ押上から荒川まで、幾度も曳舟川通りを歩いた。
曳舟川通りの終点には、荒川の土手近くに位置する京成電鉄の八広駅がある。
そこから堤防下の小道を川上の方向に向かって進む。住宅に挟まれたわずかなスペースに、虐殺された朝鮮人の追悼碑が置かれている。「悼」と表面に刻まれた、高さ、幅ともに1メートル弱の石碑。いつ訪ねても、碑の下で季節の花が鮮やかな色彩を見せていた。
この場所を訪ねたときは、いつもそうするように、私はちょこんと頭を下げる。
すみませんねえ、また花を買ってくるのを忘れました。
胸の中でぶつぶつ。泡が弾けて消えていくようにとぎれとぎれの言葉を念じながら、碑の上にそっと触れる。
希少とされる天然の根府川石(神奈川県産)は、優しい手触りが特徴だ。溶岩流が固まってできたものらしく、想像力を最大限に発揮すれば、ある種の熱を感じ取ることもできる。そこには人間の無念が、尊厳が、悲しみと苦痛が閉じ込められているのだから。
追悼碑の裏面には次のような文言が記されている。
一九二三年 関東大震災の時、日本の軍隊・警察・流言飛語を信じた民衆によって、多くの韓国人・朝鮮人が殺害された。東京の下町一帯でも、植民地下の故郷を離れ日本に来ていた人々が、名も知れぬまま尊い命を奪われた。この歴史を心に刻み、犠牲者を追悼し、人権の回復と両民族の和解を願ってこの碑を建立する
関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑
1923年の関東大震災直後、この一帯は朝鮮人虐殺の「現場」となった。
当時、八広駅(そのころの駅名は荒川駅だった)の南側から対岸の葛飾区に向けて「四つ木橋」がかけられていた(現在の四つ木橋は国道6号線として駅の北側に移っている)。四つ木橋は震災の前年に完成したばかりの新しい橋で、そのためか大地震でも倒壊することはなかった。
橋の下、荒川の川原は火の手を逃れて押し寄せた避難民でごった返していた。
そこで朝鮮人が殺された。ただ朝鮮人であるというそれだけの理由で。
この一帯で虐殺を目撃した人物の証言は、『関東大震災 朝鮮人虐殺の記録~東京地区別1100の証言』(西崎雅夫編著・現代書館)をはじめ、多くの文献書籍に収められている。
数ある関連書籍の中で、今年、私が初めて手に取ったのが、伴淳三郎の自伝『伴淳のアジャパー人生 芸道・色道50年』(徳間書店)だった。
バンジュンこと伴淳三郎は、「アジャパー」の流行語で一世を風靡した昭和期のコメディアンである。若い世代にはなじみもないだろうが、私より上の世代にとっては懐かしい名前だ。
そのバンジュンの自伝に、なんと朝鮮人虐殺に関する生々しい記述があった。
震災当時、バンジュンはまだまだ17歳だった。故郷の山形を出て熊谷市(埼玉県)に住む兄のもとで生活していたが、兄弟の折り合いが悪くなって家出。上京したばかりだった。
大地震がもたらした煙火に追われ、たどり着いたのが四ツ木橋である。当時、四つ木橋の周辺には、ずいき畑が広がっていた。疲れ切った彼はずいき畑に座り込む。周囲は避難民で埋まっていた。そこへ「朝鮮人が暴動を起こした」とのうわさが流れる。「朝鮮人を押さえろ」。興奮した大人たちが口々に叫んだ。血相を変えた彼らは、どこかに走り去っていった。
そして翌朝──バンジュンは「阿鼻叫喚の地獄絵図」を目にすることとなる。
同書の中で、彼は次のように記している。
朝鮮の人と思われる死体が地面にずらーっと転がっている。その死体の頭へ、コノヤロー、コノヤローと石をぶっつけて、めちゃくちゃにこわしている。生きた朝鮮の人を捕まえると、背中から白刃を切りつける。男はどさりと倒れる。最初、白身のように見えた切り口から、しばらくしてピャーっと血が吹くんだ。俺はそれを目撃して震え上がっちゃった。
そうこうしているうちに、映画館へ朝鮮の人が逃げ込んだといって騒いでいる。それってんで皆で追っかける。朝鮮の人はたまらず屋根へ逃げのびる。それを下から猟銃で、バババーンと打ち落とす。その死体めがけて群衆が殺到する。手に手に持った石を、死体めがけて投げつける。死体はたちまちハチの巣のようにメチャメチャになってしまう
同様の証言は他にいくつもあるが、私がバンジュンの言葉として胸に迫ってきたのは「めちゃくちゃにこわしている」という表現だった。殺されているでもなく、斬られている、叩かれている、でもない。「こわされている」。
そうか、ここで人間が「こわされ」たのだ。
なぜか、その言葉がいつまでたっても頭の中に焼き付いて離れない。
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