「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

「生活保護の現場ルポ 2012」から変わらない日本の今を考える<5>

 関係者の間では「青本」と呼ばれる。

 正式名称は「生活保護手帳」。全国のケースワーカー、役所の生活保護事務担当者にとっては必携の書だ。運用規則から運用事例、担当者の心得までが記された同書は、全777ページ、厚さは4センチにもなる。

 生活保護に関した相談があると、担当者はまず、同書を相談テーブルの上にドンと置き、それから話を進める。

 主に運用上のマニュアルとして使われる「青本」であるが、同書の冒頭に記された生活保護法の条文は、ベテランであればあるほど、目を通す機会も減ってくる。それがもっとも大事な、いや、守るべき原理であるにもかかわらず、だ。

 生活保護法第一条 この法律は、日本国憲法第二十五条に規定する理念に基き、国が生活に困窮するすべての国民に対し、その困窮の程度に応じ、必要な保護を行い、その最低程度の生活を保障するとともに、その自立を助長することを目的とする。

 第二条 すべて国民は、この法律の定める要件を満たす限り、この法律による保護を無差別平等に受けることができる。

 ここで明確にうたわれているのは、国家の責任と国民の権利である。生活保護とは、けっして温情による施しではない。ましてや恥ずべきものでは絶対にないはずだ。

 だが、世間の生活保護に対する不信感や嫌悪感、あるいは面白半分のバッシングなども含めた「攻撃」を背景に、バックラッシュの波は止まらない。いまや権利と義務の立ち位置は逆転しつつあるのではないか。

 そんな思いでいるときに奇妙な文章を目にすることとなった。

 大阪市鶴見区の都倉尚吾区長が2012年8月1日、同区のHPに掲載した「鶴見区が抱える課題と、その解決方法について」なる一文である。

 都倉区長は元関西電電力の社員で、当時の橋下大阪市長が音頭を取った「区長公募」によって選ばれた人物だ。HP掲載文章は、区長就任にあたっての所信表明のような形で掲載された。

 全体としてはかなりの長文であるが、このなかから生活保護に関する「区長方針」部分のみ、以下に抜き書きする。

 ・日本の憲法はいわば国民の権利を保護する権利の章典であり、極めて美しいコンセプトをうたっている。しかし残念ながら権利の主張に重点が置かれ、それにかかるコストをどう担保するかという視点についてはバランスを欠いていると言わざるを得ない。もらう100円とあげる100円は価値が異なるという至極あたりまえで身近な感覚が容れられていない。(略)たとえば月15万円の生活保護費は、もらう側のありがたさと、払う側の痛みを比べた場合、はるかに払う側の負担感が強いはずである。

 ・保護を受ける人々が、できる限りサービスの提供する側にまわっていただくことで、保護費を単なる支出として認識するのではなく、サービスの提供に対する対価と認識すれば、払うほうも、払われるほうも、より喜びがもてる。サービスの提供分野は介護、保護、子どもの世話、夜の見回り、公共施設の点検管理、町や施設の清掃、ごみの分別、求職の補助等々様々な分野が考えられる。政府や自治体から支払われる単なるコストではなく、受給者による労働の対価ととらえる。

 民間からの転身ということで、張り切りすぎた部分もあるのだろう。だが、都倉区長の論理は、完全に生活保護法の精神も理念も逸脱している。「払う側の負担感」を強調し、そのうえ生活保護を「労働の対価」に置こうとしているのだ。それが本当にできるのであれば、最初から公務労働分野で雇用の受け皿をつくればよいだけではないか。

 私はそこに、生活保護利用者への偏見、あるいは懲罰的施策のニオイを感じざるを得なかった。

 「いやあ、少しばかり直截的な書き方になってしまったかなあとも思っているんです」

 鶴見区役所。区長室で対面した都倉区長は、こちらが拍子抜けするくらいに快活な表情で取材に応じた。

 紺色のポロシャツから日焼けした腕が伸びる。ヨットが趣味というだけあって、52歳の年齢を感じさせない若々しさがある。

 「もらう100円とあげる100円は価値が異なる」といった点について、都倉区長は次のように解説した。

 「生活保護は、もらう側からすればありがたいものかもしれませんが、それは税金から出ているんですよ、ということを認識してもらいたいわけなんです。受給者の側も、最初はありがたいと思っていても、常態化すれば、金の価値が軽くなってくる」

 その「金の価値」を理解してもらうために持ち出したのが、「生活保護を労働やサービスの対価に」という主張だった。

 「ひとりでも多くの方に、もらう側から払う側になっていただきたい、ということです。自らが痛みを感じることのない過剰な権利意識というのは抑制されるべきだと思いますし、やはりなによりも税収が減っていくにあたって、財政のことも真剣に考えなければいけない」

 なにかとんでもないことを話しているのではないかとの意識はあったが、都倉区長はあまりに屈託なく話を続けるので、その場において、私のほうが勝手に問題意識を抱えてしまったのではないかという錯覚すら覚えたほどだ。

 だが指摘しておかねばならない、都倉区長もまた、生活保護の内実をきわめてステロタイプなイメージで固めている。それはたとえば私との雑談のなかで地域コミュニティの重要性に話が及んだ際、「地域がしっかりしていれば生活保護は出ない」と口にしたことからもわかる。何の制度的補償もない地域コミュニティだけで解決できるほどに現代の貧困は甘くない。都倉区長の論理もやはり、生活保護は恥だという概念に覆われている。

 むろん、そこには新任者としての気負いもあったかもしれない。大阪市の生活保護率(人口1000人当たりの保護人数)は、32パーミル(3.2%)と全国ナンバー1の高さである。貧困は、そして貧困から派生する福祉に関して、行政マンとしては確かに避けて通ることのできない問題だ。

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