「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

17年前の夏を振り返る~「強制集団死」を生き延びた金城重明さんのこと


集団自決の慰霊碑(渡嘉敷島)

 金城重明さんが亡くなった。93歳だった。

 沖縄戦の「集団自決」(強制集団死)を生き延び、戦後はキリスト者としての道を歩んだ。


金城重明さんの死去を報じる地元紙

 私が金城さんを取材したのは2005年の7月。そのときの記憶は心の奥底に焼きゴテを押し付けられたような痛みをともなって、いまでもはっきりと残っている。


フリージャーナリストの看板を掲げたばかりの頃の筆者。取材先で同業者が
撮ったもの

 その頃、私は長きにわたり記者として働いてきたスキャンダル系週刊誌の編集部を辞め、フリーランスとしてあらゆる媒体に記事を書き飛ばしていた。というより、食っていくために必死だった。私はそれまで特ダネを連発した経験もなければ、記者としての力量を評価されたことも、たぶんなかった。数人の契約記者をかき集めて労組を結成し、退職金を勝ち取ったことだけが唯一の実績という、版元からすればすこぶる危なっかしい使い勝手の悪いライターでもあった。

 需要は自分でつくるしかない。仕事を得るために、言葉を無理やり強奪する取材を繰り返していた。工事現場の見回りを装うため作業服を着て自転車にまたがり、取材対象者の自宅前で張り込み、ドアが開いた瞬間に突進するという質の悪い刑事のまねごとばかりしていた。しかも多くの場合、何の収穫もなく「〇〇は取材に応じることなく無言を通した」みたいな、どうしようもない記事しか書くことができなかった。

 正直、疲れていた。飽き飽きしていた。倦怠と絶望に襲われながら、撤退の道も模索していた。いったい、自分は何をしてるんだろう。社会に問題提起するとか、権力や大資本を追い詰めるとか、それなりの青臭い目的があって週刊誌記者となったのに、しかも「自由」を求めてフリーランスとなったのに、主体性を失い「不自由」の度合いは増すばかりだった。

 力量のなさを棚上げし、こんな仕事は向いてないんじゃないかと思った。作業服を着たまま、取材経費で落とした新品のママチャリを漕いで、誰も知らない遠くへ行ってしまおうかと真剣に考えた。まだそのくらいの若さは持ち合わせていたはずだった。

 そんな時に沖縄取材が決まった。

 きっかけは同年6月、「新しい教科書」の採択運動を進めていた自由主義史観研究会が東京都内で「沖縄戦集団自決事件の真相を知ろう」と銘打った「緊急集会」を開催したことによる。

 集会では当時同会代表を務めていた藤岡信勝氏が「集団自決の真相」を求めて実施した沖縄現地調査の結果を報告。「旧日本軍が沖縄住民に集団自決を強要したというのは虚構であることが判明した」とぶち上げた。そのうえで「集団自決を軍が強要の記述を教科書から削除するよう運動を始める」と宣言したのである。

 その際に満場一致で採択された「決議」には、次のような文言が記されている。

 社会科や歴史の教科書・教材には、過去の日本を糾弾するために、一面的な史実を誇張したり、そもそも事実でないことを取り上げて、歴史を学ぶ児童・生徒に自国の先人に対する失望感・絶望感をもたせる傾向がしばしば見受けられます

 事例の一つに「大東亜戦争時の沖縄戦で民間人が軍の命令で集団自決させられた」というものがあります。しかし、これは事実でないことが、関係者の証言や研究によって既に明らかになっています

 私たちは、敗戦六十年の今年、この「沖縄集団自決事件」の真相を改めて明らかにし、広く社会に訴える

 それまで南京虐殺、日本軍慰安婦の問題で、いまでいうところの「歴史戦」(いやな言葉だ)を展開してきた同会が、次のターゲットとして沖縄に狙いを定めた瞬間だった。

 個人的に右派勢力の動向をチェックしていた私は、集会を報じた保守系雑誌でそのことを知り、危機感を持った。歴史改ざんと、沖縄戦の犠牲者を侮蔑するような動きが、たまらなく嫌だった。いや、腹が立って仕方なかった。

 このことを記事にしようと考えた。どうせ記事にするのであれば、藤岡氏などに直当たりするだけでなく、沖縄に足を運んで「集団自決」の実相も調べたかった。

 もうひとつ本音を打ち明ければ、少しの間、東京を離れたかった。きれいな海を見れば、どす黒く濁った自分の心も浄化できるんじゃないかと、今にして思えばかなり身勝手な動機が私の背中を押した。        

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