「ノンフィクションの筆圧」安田浩一ウェブマガジン

【無料公開】「生活保護の現場ルポ 2012」から変わらない日本の今を考える<1>

 「生活保護というのは日本文化からすれば恥です」。

 差別扇動と貧困者攻撃の結果、批判の渦中にあるメンタリストの言葉ではない。

 発言の主は国会議員──参議院議員の片山さつき氏だ。

 メディアを筆頭に、日本社会が「生活保護バッシング」に走ったのは2012年のことだ。お笑い芸人の親族による生活保護利用が「発見」されたことが端緒だった。「不正受給」を糾弾するキャンペーンが始まり、いつしか生活保護利用が「不正まみれ」であるかのような論調も生まれる。同時に、外国籍住民の生活保護利用にストップをかけようとする動きもみられるようになった。

 生活保護バッシングは、ヘイトスピーチと地続きの問題だった。差別扇動そのものである。

 そうした時期に、私は生活保護を利用している当事者、保護行政の担当者などを取材した。その過程で、バッシングの旗を振り続けていた片山氏と対談する機会も与えられた。

 片山氏の口からは、他にも貧困に苦しむ人々を貶める言葉が次々と飛び出した。

 「人様の税金で生活しようとするのですからね。それがいいことなんだと、権利を謳歌しようなどと国民が思ったら、国は成り立たなくなる」

 「ホームレスが糖尿病になるような国ですよ」

 人間の尊厳が棄損される。権利が無視される。生きていくことが否定される。

 それが当時の社会の温度であり、それはいまも保たれている。

 あまりにも醜悪な言葉と現象に引きずられ、私も含めたメディアの多くは「報じる」ことばかりに力を注ぎ、差別者は罰せられなければならないという、あるべき社会の原則に立たなかった。

 だからこそDaiGoはつくられた。

 差別と不寛容に対してはゼロ・トレランスでなければいけない。

 実際、差別と不寛容は多くの命を奪ってきた。「不必要な人間」を勝手につくり出すことで、犠牲者の数を積み重ねてきた。

 外国人というだけで殺された無数の人々がいる。マジョリティによって身勝手な命の線引きが行われ、犠牲が強いられた。

 それだけじゃない。

 ホームレスを集団リンチで殺したのは誰か。路上で生活する女性を殺したのは誰か。障がい者を「社会の無駄」と決めつけ虐殺したのは誰か──

 差別者であり、その差別者を放置、容認してきた社会である。

 強いられた死は、ニュースで報じられる「殺人事件」だけにとどまらない。

 福祉に守られることなく、餓死、孤独死、自死する人々も後を絶たないのは、差別を断罪せず、自己責任論の強要に無責任に乗っかった社会の責任でもある。

 今回、2012年に私が講談社の月刊誌『g2』に書いた「生活保護の現場ルポ」を、少しばかりの改稿を加えたうえで掲載する。生活保護バッシングの内実に触れたものだ。驚くことに、状況はいまでも何も変わっていない。

 私たちはこの問題に対して何をすべきか、何をすべきでなかったのか。そうしたことを考えながら、目を通していただけたらありがたい。

 なお、文中の肩書、年齢は取材当時のものだ。改稿前の記事は、19年に出版した『愛国という名の亡国』(河出書房新社)でも読むことができる。

■ルポ 生活保護バッシングが映し出す風景

 小高い丘を登り切ったところに、その墓はあった。墓誌はない。立型の墓石には「S家の墓」とだけ刻まれている。

 周囲を囲むように植えられたヒマワリの花が真夏の日差しを受けながら、夕張山地から吹く穏やかな風に乗って揺れていた

 この墓には、最近になってS家の長女、湖末枝さん(死亡当時42歳)と妹の恵さん(同40歳)の遺骨が納められた。

 姉妹の父親は、この町で炭鉱労働者として働いていた。だが湖末枝さんが中学生のときに病死。その後、病弱だった母親も父親を追うように亡くなっている。

 一家はようやく同じ場所で再会した。

 あまりに悲痛な再会ではあるけれど。

 軽く手を合わせてから、墓石を背にして町を見下ろす。寂しい町だなあと思う。メインストリートに人影はなく、草木が風でザワザワと騒ぐ。耳へ響くものはそれだけだ。

 北海道歌志内市。札幌の北東約100キロに位置する山間の小さな町である。人口4千300人。「日本一人口の少ない市」として知られる。

 ちなみに生活保護利用世帯の割合が道内でもトップクラスの数値(※取材時)であることに、なにか因縁めいたものを感じないわけではなかった。

 都市の片隅で生活保護の助けを得ることができずに死んだ姉妹は、この町に遺骨となってたどり着いたのである。

 質素な建物の市役所では、保護福祉課の主査が節電のために照明を落とした薄暗い庁舎で応対してくれた。

 「結局、炭鉱を失ったことで、この町は衰退の一途をたどっているんですよ」

 歌志内は1950年までは炭鉱の町として栄えていた。ピーク時の48年の人口は4万6千人。それが炭鉱の閉山によって、現在は10分の1までに激減している。しかも人口の4割が65歳以上の高齢者で占められる。

 生活保護世帯の割合が高いのは当然だ。過疎の町に目立った産業もない。

 「企業誘致もうまくいきません。まあ、高齢化率も生活保護の利用率も高いってことは、ある意味、日本の未来を先取りした先進的な自治体なのかもしれませんけどね」

 栄枯盛衰は世の常だ。町も産業も、永遠に栄えることが保証されているわけではない。

 もちろん人間も。

 だが、姉妹の死はあまりにも早すぎた。

 札幌市内のマンションの一室で二人の遺体が発見されたのは、2012年1月20日のことである。

 湖末枝さんは自室のベッド脇で倒れていた。フリースの上にジャンパーを重ねるという、室内とは思えぬ厚着姿だった。

 知的障がいを持つ妹の恵さんは、別の寝室のベッドの上で、毛布を掛けて横たわっていた。

 解剖の結果、湖末枝さんは前年12月中旬ごろに脳内血種で病死と判明。恵さんは1月初旬に凍死したとみられる。誰にも看取られることのない孤独死だった。

 料金滞納によってガスと電気は止められ、冷蔵庫の中も空っぽだったという。

 真冬の北海道ではエアコンやストーブで暖を取らなければ室温は氷点下となる。飢えと寒さが姉妹の命を奪ったといえよう。

 湖末枝さんは失業中だった。09年まで市内のブティックで販売の仕事についていたが、体調不良で退職して以来、妹の世話をしながら連日、求職活動に走り回っていた。その間は妹の障害年金と、短期のアルバイト収入のみで生活していた。

 だが自身の体調不良や雇用環境の悪化もあり、求職活動はうまくいかない。そうした事情もあって、湖末枝さんは亡くなるまでの間に3度、地元白石区の生活保護課を訪ねている。

 最初の相談は2010年6月1日。その日の面接受付票(相談内容を記した書面)には、担当者によって次のように書き込まれていた。

 <保護の要件である懸命な求職活動を伝えた。仕事も決まっておらず、手持ち金も僅かとのこと>

 担当者は十分に窮状を理解していたと思われるが、<本人が申請の意思を示さなかった>として、生活保護の申請書を渡さなかった。

 2度目の相談は2011年4月1日である。面接受付票には<手持ち金が少なく、食料も少ないため、相談に来たとのこと>と記されている。この日、担当者は非常用パン缶詰を湖末枝さんに支給。すでに食料を事欠いた状況であることがうかがえる。だが担当者は<食糧確保により生活可能であるとして、生活保護相談に至らず>とした。

 そして3度目。最後の相談は11年6月30日。

 面接受付票には<求職活動をしているが決まらず、手持ち金も少なくなり、生活していけないと相談に来たものである>と書かれている。これを見ても、湖末枝さんが「生活できない」と窮状を訴えていることは明らかだ。さらに<生命保険に加入していたが、保険料を払えず失効。負債は家賃、公共料金の滞納分>と、相当に生活が追い込まれていることを担当者は把握している。

 だが、なぜか担当者は<保護の要件である懸命な求職活動を伝えた>として、またしても申請書を渡すことはなかった。

 このわずかなやりとりを追うだけでも、湖末枝さんたちの切迫した状況が伝わってくる。湖末枝さんは毎回、「手持ち金がない」ことを訴え、しかも2度目の面接では非常食の支給までされているのだ。

 しかしいずれの場合も担当者は<保護の要件である懸命な求職活動>を伝えるだけで湖末枝さんを帰している。

 浮かび上がってくるのは、<懸命な求職活動>を促すことで、極力、生活保護申請に至らせまいとする行政の意地だ。いや、悪意といってもよいだろう。        

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