久保憲司のロック・エンサイクロペディア

The B-52’s “ロック・ロブスター”  –もう何も新しくなく、何も古くない世界。もう何が何か、分からないまま、踊り続けるしかないのかもしれません

 

 

B-52’sが大好きです。ハッピーになります。

デトロイト・テクノの雄“デリック・メイ“もデトロイト・テクノ誕生以前のDJでは、B52’sの「ロック・ロブスター」をかけていたそうです。「プラネット・クレア」も使えそうですね。

 

 

デトロイトの黒人たちが、「ロック・ロブスター」に合わせて、エジプシャンとかチキンを踊っていたと考えるだけで、笑えてきます。そんな中に唯一白人でいたのがリッチー・ホウティンと弟のマシューとその仲間たち。しかもわざわざカナダから。わざわざと言っても川向こうなので、すぐに来れるんですけどね。

デレック・メイの仲間たち、本当に変わった黒人だったんでしょう。彼のやっていたパーティー、ミュージック・インステチュートが終わる時の招待状が、お葬式のカードに「ミッション・イズ・オーヴァー」って書かれていて、完全にスロッピング・グリッスルの解散の時の招待状を真似していて、思わずお前スロッピング・グリッスルなんか聴いてたのかと思ってしまいました。

 

 

ジェフ・ミルズとその黒人の親友と車に乗っている時、他の日本人と卓球さんのやっていたワイヤーというパーティーの話をしていたら、その黒人が、「君らワイヤーの話しているの?」とイギリスのワイヤーのことを喋っているのかと思って、突っ込んできました。きっとジェフと幼馴染は、肩身の狭い思いをして生きてきたのでしょう。デトロイトでワイヤーって、まさに映画『ゴースト・ワールド』の世界です。

 

 

当時はフロアーで使えるレコードが少なかったから、B-52’sの「ロック・ロブスター」も使っていたのです。

で、みんな、どんどん掘っていて、これも使える、あれも使えるとレコードが蓄積されていったのです。まさに集合知、「そういうのが嫌やねん」とギャグで歌っているのが、LCDサウンド・システムの「ルージング・マイ・エッジ」です。“カンをみつけたのは俺やで”“お前らがギター弾いてるころ、俺はギターを捨て、ターン・テーブルを買った”“俺はいつでも最先端でいたいんだ”。何でも最初にやった、でも俺は、結局何もしてないけどねというオチなのです。

 

 

というわけで、なんでも観たでと言うのダサいんですけど、僕、B-52’s見ているのです。僕、XTCも見てます。しかも京大西部講堂で、アント・サリーとP-MODELとXTC、そして、この時トリを務めたのはXTCじゃないんですよ、日本のリザードだったのです。トーキング・ヘッズの初来日も西部講堂で見ました。前座はS・KENでした。自分にとっての青春とは村八分のジャケットに映った京大西部講堂の屋根にかかれた赤いオリオン座を見ることだったのです。

 

 

B-52‘sなんか磔磔だったんですよ。ずうっと拾得だと思ってたんですけど。調べたら磔磔でした。拾得だったと思うくらいパンパンだったのです。拾得はエリオット・マーフィーを見ました。ガラガラでした。座ってゆっくり観て、休憩中か終わったら、エリオット・マーフィーがカセットかレコードを売りにカゴに入れて売りに来ました。僕はお金がなかったんで、なんも買わなかったんですけど、カメラ・バッグにサインもらいました。B52’、エリオット・マーフィーは今のスマッシュの前身のようなトムズ・キャビンがやっていて、カメラとか持って入っても怒られなかったのです。でも、注意されたら怖いので、カメラ撮らずじまいでした。あの頃の僕は14歳で、まだまだ奥手でした。

 

 

僕はそんな京都に大阪から通っていて、ずうっと京都に住んでみたいなと思っていて、今は、そんな憧れの京都に住んでいます。拾得のすぐ近くに住めて嬉しいです。僕にとって京都はロックの街なのです。デヴィッド・ボウイが住んでたり、京大西部講堂があったり、今も高瀬川の辺を歩いていたら、当時にタイム・スリップしてしまいます。

僕にとってはB-52‘sはそんな存在なんですけど、なぜかそのギターには4弦が張っていなかったのです。

 

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